被・让・叫・给が受け身の文で使われるのはみなさんご存知かと思います。
しかしながら、受け身の文の「被・让・叫」と併用されるもうひとつ「给」って知ってます?
ぼく知ってる。
我的钱包儿让我给忘在家里了
(私の財布は家に忘れてきました)
电脑已经让我哥哥给修好了
(パソコンは兄がすでに直してくれました)
第十五课到第三十课的生词都叫我给背下来
(第15課から第30課までの新出単語を私は全部暗記できました)
我们的座位让别人给占了
(私達の席が他の人に占領されています)
単独で使用される「给」ではなく、「被・让・叫」と合わせて使用されるもうひとつの「给」。
本日はそこらへんのお話でございます。
例文は 口が覚える中国語 より
受動態介詞の「给」と、助詞の「给」
山羊山が重宝している「口が覚える中国語」は文法書というよりは例文集です。
なので「文法はよそでお勉強済ませて、それからうちに来てね」というスタンスです。
しかしながら、「それでは色気も素っ気がなさすぎる!」と考えたのかどうか尻ませんが、ページの欄外にちょこちょこっとワンポイントアドバイスみたいのを掲載してくれています。
受動態ページの欄外に以下のような解説があります。
「给」は、動作主の後に置く語で、口語でよく使います
口が覚える中国語 より
「動作主の後に置く」ということから、動作主の前に置かれる「被・让・叫」とは別の何かだということがわかります。
が、具体的にどういう状況で使い分ければいいのか、その辺のところがよくわかりませんね。
スペースの都合上なのか、それ以上の解説がないので別の文法書をあたってみることにします。
大正義「これならわかる中国語文法」
Vの前に助詞の“给”が現れることがある
NHK出版 これならわかる中国語文法
“给”は省略可能ですが、これを用いると、より口語的になります
“被”などを用いる形 より
「口語的になる」というのはわかりました。
が、「口語」とは「話し言葉」です。
会話で使う時にはとりあえず给を入れてけばいいということでしょうか。
私達日本人が「どのような場面で、どのように使い分けをすればいいのか」を判断するためには、もう一歩踏み込んだ解説が欲しいところですね。
ネットで調べてみる
‘被’などを使った受け身文に用い「やってくれたな」という語気を示す.
大正義 Weblio
白水社 中国語辞典より
https://cjjc.weblio.jp/content/%E7%BB%99
客観的な受け身分に、話し手の感情や表現などの語気を付与するようです。
さらにYING 中国語スクール・会話教室さま
お役立ち文法 受動態(被構文) より
※受身を表す「被,让,叫,给」と呼応して、動詞の前にもう一つ受け身を表す「给」が使われる場合がある。「~しまった」という残念な結果を表すことが多い。
https://www.ying-ckj.jp/15312025746561
本スクールの校長は朴英(パクエイ)先生という日本語堪能な中国人の方。
中国の瀋陽出身で、教員免許(中国語)と日本語能力検定1級を持っているそうな。
ここまでスペックの違いを見せつけられると、もう嫉妬とか劣等感とか、なんも起きませんね。
この方が記事を書いてるかどうかまではわかりませんが、中国語ネイティブの話として信頼してよいでしょう。
ネガティブなニュアンスなのか?
辞書とパクエイ先生の話を踏まえると、受け身文の「もうひとつの给」には、どうやら「やられた!」というネガティブな感情が込められているようです。
しかしながら。
今回引用している4つの例文のうち、2つはどうもネガティブというより、前向きな文のように見受けられます。
电脑已经让我哥哥给修好了
(パソコンは兄がすでに直してくれました)第十五课到第三十课的生词都叫我给背下来
(第15課から第30課までの新出単語を私は全部暗記できました)
パソコン修理されて「なに直してんだよ」と怒る人はあまりいないでしょうし、単語を暗記できて「暗記してしまた…俺って天才なのかなぁ…」と落ち込む人もいないと思います。
辞書&パクエイ先生が間違っているのでしょうか?
つーか辞書を疑い始めたら外国語学習者の外国語学習は外国語学習どころではなくなってしますます(錯乱
そうなってくるとそもそも「口が覚える中国語」の方こそ信頼できるのか?という可能性も出てきますが。
著者・斉霞さんの経歴を見てみると、天津出身の中国語ネイティブ。
さらには早稲田大学院の修士課程修了済み、日本国内の複数の大学で講義を行うほどに日本語も堪能。
そんな著者の編んだ文法例文に、自称言語学者の山羊山が「この例文集には誤りがある」と挑んでいくのも無茶な話だと思うわけです。
なのでここからは、「どちらも間違いではない」「でも相違はある」という問題に対して、自称言語学者見習い補佐代行代理・山羊山羊一の分析を展開していくことにします。
中国は広い
例えばとある単語や語句の用法を調べていると、「南方では~」「北部では~」と、用法に地域差があることを伺わせる記述を見かけます。
「中国」と一言で言っても、地域によって気候も風土も文化も風習も様々です。
日本ですら北と南で意思疎通が難しい言葉の揺らぎがあるわけですから、さらに広大な中国であれば尚更です。
言語が統一化されていると言っても、言語感覚の「揺らぎ」はあって当然なわけです。
僕は現地に行ったことがないのでパクエイ先生の瀋陽と、斉霞先生の天津の間にどれほどの地理的・文化的な違いがあるのかはわかりません。
しかしながら、そこに言語感覚の違いというものが、全くないと、言い切ることもできないわけであります。
つまり、「被・让・叫」と呼応して使用される「给」は、ネガティブなニュアンスばかりでもないのでは?ということです。
「给」は受け身文を生き生きとさせる
例文をもう一度確認してみましょう。
电脑已经让我哥哥给修好了
(パソコンは兄がすでに直してくれました)第十五课到第三十课的生词都叫我给背下来
(第15課から第30課までの新出単語を私は全部暗記できました)
ネガティブなニュアンスはありません。
むしろ、喜びや驚き、感動のようなものを感じることができるのではないでしょうか。
「(しばらく使えないと思ってたけど)兄貴がさァ!直してくれてさァ!パソコンをさァ!」
「(無理だと思ってたけど)あれだけの単語をさァ!暗記できてさァ!全部さァ!」
予定調和ではなく、自然発生的な動作を受けとるのが「受動態」です。
その特性上、予想外に発生した動作に対して感情が動く場面は「やられた!」と唸ってしまうネガティブなシーンも少なくないでしょう。
「ネガティブな場面で使用される場面が多い」というだけなのですが、それ故に、「語気を強める作用のある给は、ネガティブな用法である」という通説になってしまった可能性も考えられのではないでしょうか。
しかしながら、「受動態助詞の给」の本質は、口語でよく使われるということからも、「受動態に感情を乗せる」という一面を伺うことができます。
であれば、後ろ向きな気持ちはもちろん、感情が動いているのであれば、前向きな気持ちも表現できるのではないでしょうか。
つまり、受け身の文における给とは、「喜怒哀楽」あらゆる感情に向かい、心揺さぶられ、その情動を給わって出てくる、そんな给なんじゃねえかなって、山羊山は考えるのです。
と、いうわけで
受動態における助詞の给は、嬉しい時も悲しい時も病める時も、感情を込め、語気を加速させる時には使うことができる。
というのが山羊山の結論です。
仮説ではありますが、仮説であるからこそ、この仮説の第一提言者として、受け身の文において「ちょっと聞いてよ!」と感情の高まりと、語気に勢いをつけたいときには、嬉しいことも悲しいことも、助詞の「给」を使い、将来本場の中国人に「それ何か使い方違うよ」と指摘されたら、コッソリこの記事を削除したいと思います。
そうなった場合都合が悪いので、この記事をブックマークとか、Evernoteとか、スクショとかやめてね。
そんなわけで以上、中国語の受動態には介詞の「给」と助詞の「给」があるけどそれは感情が動いた時の给!!でした。
本日の参考図書
これならわかる中国語文法
外国語の筋肉 いちばん最初に読む外国語の本
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